憧憬と義憤とジェラシーとルサンチマンとシャーデンフロイデ

憧憬 
その感情: 私たちは自分が持ってない才能や容姿などを持つ誰かに憧れを抱き、自分をそれを手にする努力をする。
嫉妬との違い: 他人が持っているものを自分が持っていないという状況に苦しみ、他人がそれを失うことを切望する。


義憤
その感情: どこか道徳的に正当化できる。その人物に相応しくない成功や幸運があれば誰でも義憤の対象となる。
嫉妬との違い: 嫉妬の宛先は自分との比較に限られる。しかもその人物に相応しいものであったとしても、嫉妬者はそれに我慢できない。


ジェラシー
その感情: 嫉妬との区別は難しく、両者は入り混じっているが、ジェラシーは「喪失」にかかわる。つまり、ライバルが自分のものを奪おうとしていると考える。

嫉妬との違い: 嫉妬は「欠如」にかかわる。つまり、自分がほしいものをライバルが持っていると考える。


ルサンチマン
その感情: 
どうしても手に入れることのできないものがあるとき、その価値を否定することで満たされない要求を慰撫する心性の働き。政治的その他において形式的に平等な権利が認められながら、実際にはきわめて不平等なわたしたちのような社会で生じやすい。

嫉妬との違い: 嫉妬感情はルサンチマンを引き起こす一つの燃料であり、高貴な価値を否定するルサンチマンとは区別可能。



シャーデンフロイデ
その感情: 他人の不幸は蜜の味。他人の不幸から喜びを引き出している点で大いに恥じるべき感情

嫉妬との違い:シャーデンフロイデは嫉妬感情と密接に絡みあっている。
つまり、妬みの対象が不幸のどん底にあるのを目の当たりにすると嫉妬はシャーデンフロイデに転生する。




引用元: 嫉妬論 民主社会に渦巻く情念を解剖する (光文社新書 1297) https://amzn.asia/d/3aFk1G2







ひとことで嫉妬といっても、嫉妬と妬みも違うし、ドイツ語のシャーデンフロイデは日本だと他人の不幸は蜜の味といわれるあれのことで、またニーチェのいうルサンチマンもそれぞれ少しずつ違う。ややこしいけど、細かく分解して分析してみることは大切だと思う。


女の敵は女とかいう人もいて、「女性をいじめる最大のグループは女性だった」とか
「女性は職場で男性よりも女性から不公正・非礼をうけており、女性の幸福度の低下させ、離職意欲を増加させている」とか「女性は容姿のいい同性にネガティブな攻撃をする」など、確かに論文が出ているけれど

はっきりいって、女も敵だけど男も別の意味で敵です。その中で、味方になれる人だけが仲間。だから仲間を大切にして荒野を生きろってことですハイ。

ようは、嫉妬されるとかグループを作ってハブられるとかネチネチしたやつは女だし、セクハラだのモラハラだのの攻撃は男なんで、単に攻撃の仕方が違うだけ。セクハラに関しては、女は女の味方になってくれたり、助けてくれたりするが、その点においては自分も被害側だからであって、容姿だの能力だの諸々に関してはマウント対象だから女も敵になる。味方か敵か、でいえば、指標によって性別関係なくどちらにもなりうる。

男女関係なく、隣の芝生は青いので自分の持ってないもの(かつ、欲しいもの)を手にしている隣人を妬むし、嫉妬する。健全な人なら自己研鑽に向かうけど、悪性の嫉妬なら他人の足を引っ張ろうとしたり、悪口言ったり、嫌がらせしたりする。そして、そんな嫉妬の引き金はそこらじゅうに落ちている。また、自分と近しい相手や系統や興味関心のジャンルが同じだったり、容姿や能力が同程度の相手ほど競合関係になりやすいし、嫉妬も生まれやすいし嫌われやすくなる。人間は器が小さくアホなのでネチネチするのは仕方がないしそういう醜い生き物。

だからこそ、「セルフケアしようぜ」って、みんな個々で処理しているんでしょう。

ちなみに、仲間というのをはかる尺度はとても簡単。まず、成功を喜んでくれる人、そして自分もこの人の成功は純粋に嬉しいなあって思える相手、かつ、悪い時に一緒に戦ってくれる相手です。

良い時だけすり寄ってきて、悪くなると離れる人はそんなの仲間でも友人でもなんでもない人です。

+敬意の維持と関係の対等性があること。
相手の存在自体に対するそもそものリスペクト、その人の人間性におけるリスペクトと、自分と相手は対等であるという意識。この二つがないと続きません。こんなことはもはやいうまでもない様な当たり前のことだけど。

・嫉妬への対処の仕方、向き合い方
・相手の人間性こみのリスペクトと対等性
・成功を喜んでくれる・喜びたい相手
・悪い時、一緒に戦ってくれること

ここら辺はわかりやすい尺度です。
全部を当たり前にクリアしてない相手なら付き合う必要性ない。
よっぽど何かメリットあるとか、よっぽど惚れ込んでる...とかではない限りね。



で、これも若さへの嫉妬なのかなとも思うけど

30の壁を突きつけて呪いをかけてくる人多過ぎるせいで20代終わるの怖いんだけど。本当に何時代だよな。江戸時代なら人生50だったから15で大人、30で大年増だったかもしれないが今100年時代なんだからその尺度じゃねえのに。50まで生きてもまだ半分。逆にもう半分なにするの?って人生計画のスパンが長いと長いでむずくね?って時代なのに。てか30なんかまだ赤ちゃんだわ...
脳科学的にも脳が出来上がってくるのは25〜30にかけて大人になるわけで、ああやっと、思考とか価値観とかなんとなく定まってきたな、落ち着いてきたなという良い時期ですわ。ムダなことで焦るのも不安になるのやめましょ。どうせ、1年経ったら1歳自動的に歳取るのに気にしてもムダだし。嫉妬+価値観(時代錯誤な偏見)が混ざってる場合もある。

時間は流れていくし、それは止められないことなんだから受け入れて今を生きるしかない。そもそも、自分がなりたいのって、(わたし個人的なものでは)見た目が洗練されていて、つまり自分に似合うものがわかっていてセンスが良くて中身があって自分を生きていて、内から漲る力で走るゴルシのようなメンタリティで生きていきてるマダムであって将来的には貫禄と品を備えたいんや。若さも魅力の一つだが、無知で傲慢で未熟ともいえる。もちろん、だからこそ学びも必要で知識も分別も必要で、失っていくものあれば得るものもある、それは人生の醍醐味だ。人生という意味のないゲームをちゃんと味わうためにも、生きてきてよかったなと思える為にも自分を救うためにも、生きるということは苦しい戦いなので、だからこそ"生きる力"という指標軸も大切にしている。私は人を見る時に、年齢や性別や、ましてや持ってるもののブランドなんかで人を判断しない。その人がどう生きてきて、何を考え、人生に対してどう向き合うのか。ただあるのはそれだけだ。プルーストがマドレーヌを浸した紅茶で記憶の内省の旅に出るように、わたしの内側の宮殿の庭にはあらゆる尊敬と、情熱と、愛の花が咲いている。光の粒と清く純粋な水でそれらと自分を育てていく喜びと、自分を見守る喜びとが内在している。成熟が楽しみなのなのだ。

それはさておき…
そもそも、嫉妬心というのはあらゆる場面で使われることがある。権力者が下の者たちが歯向かってこないように分断させる為にも使われていたり現代でいうと生活保護の受給者叩きとかもそうで、本来であればそんな弱者叩く必要はなく、社会システムや環境にたいしての改善をするはずなら政治家なり権力者なりにいくはずで、弱い者を攻撃させる(本来ならそこではないところに矛先を向けさせる)というのは問題の改善点の指摘としてそもそもお門違いなのだが、そういったところにあえて攻撃を向かわせる手法である。

こうした嫉妬は、社会を動かしている我々の歯車の一部でもあり終わることはない。

また差別心などを煽ることでも、分断を煽ることはできる。これは時折、嫉妬と組み合わさることもあるが、ステレオタイプからくる偏見で差別することもある。たとえば、典型的なアジア人差別だと、「基本的にアジア人は見下してるけど、日本だけは別よ。日本は素晴らしい国だわ」などという。

これを褒め言葉だと思って真剣な目で言ってくる西洋人がいる限り、差別は無くならないのは明らかである。




近しい相手に起きる嫉妬
嫉妬の感情は、比較可能な者同士の間に生じる
→15%=嫉妬の範囲
剥奪が可能な範囲にいると、嫉妬が生じやすくなる。小さな村社会だと、その嫉妬はいじめとして、つまり仲間はずれ、グループからバブいたり無視したりなどがある。

大谷翔平に嫉妬するよりも、友達の〇〇さんや、ご近所の誰々さん、クラスの〇〇君に嫉妬の感情は生じやすい。より近しい相手、近所に住んでいる、年齢が同じ、似たような外見、好きなもののジャンルが似ていることなど、様々だが、近ければ近いほど比較が可能なので嫉妬の感情が生じやすくなる。

自分が嫉妬していることを認める恐怖

自分が相手にたいして嫉妬していると認めることはとても残酷だ。それは相手よりも自分が劣っている、下であるということを意味しており、それを認めるのは苦しいからだ。たいていの人は、この苦しみに耐えられないので、見て見ぬふりをしてしまう。しかし、これを認めることが健全な、そして自分の中に負の感情を育てていかない一歩目である。

そのためには自分で自分のことをモニタリングしなければいけない。嫉妬は、合理的ではない行動を取らせるという特性がある為、そういう行動を選択しているのであれば一度立ち止まる必要がある。自分がしてしまった行動、考え、言動を振り返り、もしくは、周りの人間に「おまえは、浅ましく卑劣な人間だ」という指摘をしてもらう必要がある。

問題を受け入れずに、ないものねだりをしても無駄なことだということ。それを手にするだけの実力もなければ才能もなければ努力も運もないのだから、それで他人を羨むというのはとんでもなく浅ましくさもしい行為なのだということを理解する必要がある。そして、そういう人間はまず魅力がない。

魅力のある人間というのは、浅ましくも、さもしくもない人間のこと。その分別を子供の頃からちゃんとつくようにしておくのが、育ちの良さである。

シャーデンフロイデ
他人の不幸は蜜の味、メシうま、ともいうかもしれないがこれは憧憬とは真っ逆さまなもので、もっともタチの悪いものである。

オマキザルの猿の実験で、2匹の猿に課題を出してクリアするとご褒美としてきゅうりをあげていたところ、途中から片方の猿だけぶどうをあげるようにすると、きゅうりしか貰えない猿が怒り出すという。おれもぶどうがほしい!と。それでも無視して片方の猿だけぶどう、もう片方はきゅうりのままだと、きゅうりを貰う方の猿は、そのきゅうりすらも投げ捨ててしまった。

あわれなきゅうり…🥒

これは公平性が破られたことによる怒り、嫉妬によって、俺だってぶどうがほしいのに、くれないならもうこんなもの(きゅうりは)いらない!という行動になる。きゅうりは大人しくもらっておけば良いものを。理不尽に対する怒りは理不尽な形で放出されるのだろうか。

🐵= 🍇>🥒 なのね…

これは、人間だとマウントに繋がるんじゃないかな。あいつよりも良いものを持ってるというステータスで自分の価値上げを目論み、他者の上に立とうとする行為。これは誰しもがやったこともやられたこともあるだろうし、やられたら不快で、やれば優越感に浸れるというものだ。

ポイントは比較であるから、距離が近いとなおさら比較をして、妬みに至るのでしょう。




欲望の模倣ールネ・ジラール

模倣(ミメーシス)的欲望論の展開  

2.1 三角的欲望論  ジラールの模倣(ミメーシス)的欲望論は,その名称が示している通り, 人間の欲望が他者の模倣であるという仮定から始められる。そして,その根 幹には,三角形的欲望という概念が存在する。欲望とは一般的に,欲望する 主体と欲望される対象といった直線的な構図を思い浮かべるだろう。しかし, ジラールは一見,直線的にしか見えない欲望にはその主体と対象に光を照射 して,模倣的欲望を引き起こす媒介が存在するというのである。ジラールに とって直線的な欲望とは,チーズの塊やワインを欲しがったりするような「欲 求」のことであって,それらは自発的なものである。一方,欲望とは自分自身 の心の奥底から自発的に引き出してくるものではなく,他者から借用してくる ものである。つまり,他者が主体に対して模倣する欲望を媒介するのだという。 


そして,その関係性は,欲望する主体と欲望を引き出す媒介,そして欲望の 対象という三角形の図式となる。これをジラールは「三角形的欲望」と表現 するのである。  また,彼はこの三角形的欲望の媒介を二種類に分類する。この分類は,欲 望する主体と欲望を媒介する両者間の精神的または物理的な距離によって,主体と媒介の関係性に違いが生じることによるものである。第一のそれをジラー ルは,「外的媒介」と呼ぶ。これは主体者と媒介者の欲望が重複せず,競合関 係を生じない場合に当てはめられる。この外的媒介の説明に,ジラールは『ド ン・キホーテ』を例に挙げ,ドン・キホーテの欲望の媒介は騎士道小説の登 場人物である主人公アマディース・デ・ガウラであって,アマディースが欲す るのと同じ欲望をドン・キホーテが欲したとしても,主体が媒介と接する可能 性は皆無であり両者に競合は生じ得ない。その点において主体は媒介に敵対 することなくむしろ敬仰する。


つまり,外的媒介が精神的または物理的に遠すぎるため,欲望による主体と媒体との確執や衝突の競合関係を生じることは決してない。

分類の第二をジラールは「内的媒介」と呼び,主な関心をこの媒介に向け ている。内的媒介とは外的媒介と違い,主体と媒介の精神的または物理的な 距離が近接する状況にあり,それが両者の競合の誘因となるのである。例えば, 模倣の手近な手本が媒介によって所有される場合,媒介者自身が欲望達成の 妨げになり,主体者にとってライバルとなり憎悪と恨みの対象となる。また, 模倣する主体にとって媒介者はライバルであるだけではなく,主体の欲望を 妨げる障害となる。つまり,媒介は主体にとって手本「モデル」ではあるが, それと同時に対抗者「モデル=ライバル」となり,かつ邪魔者「モデル=オ ブスタクル」となるのである。そして心理的に媒介は主体にとって憧れであり 手本「モデル」でもあるのだが,憎悪の対象となるという,崇拝と恨みの入り混じったアンビバレントな感情を持つことになる。


引用元:https://stars.repo.nii.ac.jp/records/535

欲望の相互的媒介  

また,主体が媒介者を模倣するわけだが,場合によっては媒介者も同時に 主体を模倣する可能性も存在する。ジラールは「主体と媒体という二つの対 抗者がそれぞれ中央に位置する二つの可能圏を重ね合わせることになる,… これらのライバル同士がお互いにたいして感ずる敵意(ルサンチマン)は,ますます大きくなってとどまることがない」と述べ「対立感情の共存」を指摘 している。そして,この関係性をジラールは,模倣の「二重の媒介」あるいは 「相互的媒介」と呼び,その人間関係における欲望の模倣が羨望,嫉妬,憎悪, 対抗意識といった否定的な感情を起こさせる原因であると指摘する。このよう な相互媒介における対立感情の共存の中にあって,対抗と競合は激しさを増 すことになるが,対立を引き起こす「欲望においては,形而上的なものの役 割が大きくなるにつれて,形而下的なものの役割が減少する。媒体が接近す ればするほど,情念は激しいものとなり,対象は具体的な価値をなくしてゆく」 と推考する。


相互にかつ二重に媒介された欲望がライバル心を燃やし合う大 きな刺激となり欲望だけが膨らむのに対して,欲望の対象自体に関する価値 については大きな意味を持たなくなり,最終的にその欲望の対象は実体をなく してしまうのである。そういう意味でジラールは,この欲望を「形而上的欲望」 と呼んでいる。そして,二重の媒介が引き起こす「形而上的欲望」の論理を 展開し,それによる際限のない虚しい敵対のメカニズムを以下のように著わしている。


形而上的欲望は常に伝染する。媒体が主人公に接近すればするだけ, それだけいっそう伝染しやすくなる。伝染と接近は,実のところ,同 じ一つの現象を構成するだけだ。人がペストやコレラに罹るように, 汚染された主体と単に接触しただけでそうした近くにある欲望に《と りつかれる》時,そこには内的媒介関係があるのだ。…内的媒介の 世界においては,感染はきわめて一般的であるから,いかなる個人 も,自分が今演じている役割を理解することなく,自分の隣人の媒 体となることもあり得る。それと知らずに媒体となっているその個人 も,恐らくは彼自身,自発的に欲望することはできないのだ。それ故,彼は,自分自身の欲望の模写をさらに模写したい気になるであろう。 恐らくは最初彼の中では単なる気まぐれでしかなかったものが,激 烈な情熱に変ってゆこうとするのである。どんな欲望も,それが共 有されているのを見ればなおさら激しくなる,…同じ大きさで逆向き の二つの三角形は,この時,互いに重なり合おうとする。欲望は二 人のライバルの間で次第次第に急速に,ちょうど充電中のバッテリー における電流のように,その往復ごとに強さを増しながら循環する …それぞれが,自分自身の欲望の優先権と先在権を主張しながらも, 他者を模倣するのだ。それぞれは他方のなかに,恐ろしく残虐な迫 害者を見る。…両者は互いに,相手と自分の間が,測り知れない深 淵によってへだてられていると信じているが,どちらに関してもそう 信ずることがまちがいだと誰も言うことはできない。これこそ,正反 対なものの不毛な対立であって,二つの主体が互いに接近し,彼ら の欲望が強くなるにつれて,ますます堪え難く,ますます無意味に なってゆく対立である。


この相互媒介的な欲望を思料すると日本文学に馴染みのある者であれば, 大凡の心に思い浮かぶのが,夏目漱石の『こころ』であろう。そのストーリー の中で登場人物である「先生」は,その友人「K」が自分の下宿先の「お嬢 さん」を恋慕していることを知る。「先生」は友人「K」の欲望を模倣して激 しく妬み敵対意識を開花させ,「K」を出し抜いて「お嬢さん」を略奪するが, そのことが原因で友人「K」は自殺してしまう。


その後「お嬢さん」と「先生」 は結婚するが「先生」の「お嬢さん」への愛は沈静してしまう。何故なら「お 嬢さん」に対する愛情は友人「K」の欲望を模倣したもので,それは単に「形 而上的欲望」でしかなかったのである。そのため相互に模倣された欲望の対 象であった「お嬢さん」は,欲望を達成した「先生」にとって,その価値も 意味も消滅したのである。ジラールの「欲望する主体は,対象を自分のもの とした時ただ空虚をにぎりしめるだけだ」という言葉の通りである。  



二重の媒介が引き起こす欲望による幸福など存在するわけはなく,ジラールはそのような欲望が引き起こす破局や地獄といった終焉の事例を,スタンダール,ドストエフスキー,プルーストなどの著名な小説からいくつも炙り出 して見せる。そして,相互の媒介で引き起こされる破局は,物質的な財とい うような具体的な対象を欲望するよりも,その対象が媒介者の聖性や名誉で あったりするような抽象的なものである場合,より致命的なものになる。その 得難さのため媒体によって主体におよぼされる魅惑の度合いが,とどまりを 無くすからである。抽象的欲望の場合,主体はそれを「所有することによって, 自己の存在の根源的な変貌を期待」する。欲望する主体は,自分の媒体その ものになりたいと望み,媒体の存在を呑みつくし同化することを希求し,他者 の実態の中に溶解して媒体と自分自身との完全な総合を想像するのである。 しかし,その不可能性のゆえに主体が媒介者をより一層に羨望し敵対し,それが相互的媒介であれば双方向的な憎悪と対抗の連鎖が繰り広げられていく ことになる。  

この模倣(ミメーシス)的欲望は「その欲望の犠牲者を次第次第に地獄の ような地域にひきずってゆく」と,ジラールは語る。また,その地獄は特定の 個人間で相互に媒介し合う欲望の主体同士だけではなく,周りの他者へ,そして共同体へと伝播していく。何故なら欲望の相互的媒介は,欲望の持つ強 力な伝染力によって,最初は二人だけに誘発されたものが,「相互的媒介が二倍だったものから,三倍,四倍と何倍にもなって」,「その数は無限に増大し 得る」からである。これらの「相互媒介は遂には集団全体に作用するにいたる」とジラールは主張するのである。






差異とは自己を他者と区別するための階級であったり地位であったり,また は家柄であったりと様々な違いによって,自己を表現するためのアイデンティ ティでもある。しかし,これを人間同士の上下関係や存在の重要度を区別す るものとして用いるようなことは,現代社会においては,少なくとも公共の場 ではまずあり得ないだろう。現代人は,「平等」という価値基準を掲げて非差異化を叫ぶのである。それは,人間を区別するだけではなく差別の根源となる差異というものを,ある意味暴力的な因子として捉えているからである。


しかし,ジラールは逆にそういった差異の消失が暴力を引き起こすと考える。そして,むしろ差異の消失が「文化的秩序の全体的な危機として定義されるべきである」と主張する。何故なら,「文化的秩序は,さまざまな差異の組織化された体系以外の何物でもない。つまりそれは個人個人にそれぞれの《それがそれである特質》を与え,それぞれに他の人々との関係において位置すべき所を与える差異的へだたりにほかならない」からである。また「ある種の自然的差異がなくなるということは,人間たちがそれぞれその中に配分されているいくつもの範疇の解体」でしかないのである。


そして,この範疇の解体が人間間の相互暴力の引き金となると考える。何故なら,非差異化が外的媒介でしかなかった欲望を内的媒介へと引き上げてしまうことになるからである。今までは階級や社会的地位や高序列等への憧れは,主体が媒体者とは組織社会の中で非常に遠い存在であって,その欲望は単なる外的媒介によるものでしかなかったが,階級という範疇を解体することによって主体と媒体の接近は避けられることなく,欲望は内的媒介という構図を生み出 し相互的媒介が生じるのである。この差異の消失による暴力的混乱を,ジラールはギリシア悲劇から引用し解説して以下のように断言する。



暴力的混乱をひきおこすものは差異ではなくて差異の消滅である。 差異の危機は人間たちを,彼らから一切の弁別的性格,一切の《それがそれである特質》を奪ってしまう永劫の顔のつき合わせに投げ 込むのである。言語それ自体がおびやかされる。《あらゆるものが対 立し抗争する》のである。  


他者との差異によって個人個人がそれぞれに自己の特質を理解し他者との違いを確認できていたにもかかわらず,差異の縮小消滅によって他者との差異が不明瞭になり,やがて外的媒介による欲望が内的媒介に打って変るのである。そうなると,先に述べた媒体へ同化しようとする欲望が起こる。「欲望する主体は,自分の媒体そのものに成りたい」と願い「媒体の存在を呑みつくし同化しようと夢み」,「媒体の力と自分自身の《教養》との完全な総合を想像」し,「自分自身であることを止めずに他者になろうとのぞむ」のである。 

ここから対立感情の共存が生まれ,敵対意識は主体と媒体の相互的な対抗関 係を生み出し暴力が生じる。模倣(ミメーシス)的欲望論の展開で述べた通りである。この相互的媒介によって生じた模倣による暴力は,とめどなく周囲に伝播しながら集団に蔓延し,共同体は敵対する者同士で溢れ,その秩序は危機に瀕するのである。しかし,この無秩序と暴力を無限に続けていくわけにはいかない。そこには死が待ち受けているからである。「本体論的病いは絶えず悪化し」,「その自然的終極は死」なのである。集団的性格を帯びた形而上的欲望現象の最終段階で個人的自殺とともに「集団の自殺あるいはほとんど自殺ともいえる状態を見る」ようになる。差異の消滅は,共同体に絶望的な 危機を生じさせるのである。


スケープゴート論  

このような差異の消滅による危機の回避として,共同体によるひとつのメカ ニズムが作動する,とジラールは指摘する。それがスケープゴートである。 これは「危機を解消し,共同体を自己破壊から救う唯一の手段」であり,「唯 一可能な和解の方法」である。端的に言えば「無意識の模倣それ自体によっ て指名され,全員一致で選ばれた一人の犠牲者にこうした怒りや集団的な感 情を集中させる」ことなのである。さらに,ジラールは「いけにえを使うことによって共同体内の内的緊張,怨恨,敵対関係といった一切の,相互間の攻撃的傾向を吸収するのだ」と述べて,スケープゴートのメカニズムを明確にしている。 

 「動物には個々に,敗者の死にまで戦いが展開していくことのないようにするいくつもの」本能といえる調整機構が備わっているが,「人間にはそれらに類似したメカニズムが欠けている」ことから欲望の模倣は延々と続いていく。 そして先述した通り,それらの欲望は本質的に他者からの模倣であり,手本となる欲望から主体の欲望は写し取られ,また「同一の対象に収斂する二つの欲望は,互いに相手の障害となる。欲望にもとづく一切のミメーシス〔模倣は,自動的に争いに通じ,その模倣に伴う勝利や敗北によって模倣の傾向を強化していき,争いは絶えず激化し,欲望を模倣するごとに敵対する欲望の暴力に遭遇するのである。この模倣的欲望は,穢れの伝染と同じで共同 体全体を巻き込んでいく。この破壊的プロセスを停止させるためには,特定の犠牲者を選択し暴力の再発防止のための儀礼を断行しなければ,共同体全部が破壊されてしまう。スケープゴート理論は、このような共同体の壊滅的危機に際して,ひとりの人間を犠牲にすることによって,全体の連帯性を取り 戻す行為であるとジラールは説明する。


そして,ジラールは原初のある時点 で「自然に起こった最初の殺害が,共同体の人々を実際に結束させ,現実の 模倣の危険性にけりをつけた」ことから,スケープゴートにおける儀礼が始 まったのだと供犠行為自体の発生の起源を仮定するのである。また,古代の 共同体の中には,スケープゴートによる供犠の確立に失敗したものもあったと 考え,そのような共同体の結末とスケープゴートによる供犠の発生を以下のように述べている。

幾つかの古代集団が生き残れなかったのは,彼らのミメーシス的対 抗意識が,彼らを自己破壊から救ってくれるだけの,十分な求心力を持った犠牲者を作り出すことができなかったためだと推測することもできます。また,この現象を祭式化したり,永続的な宗教シス テムを作るのに成功しなかったがゆえに滅びた集団もあったでしょう。私が常に主張しているのは,文化の起源はスケープゴートのメ カニスムに立脚しているということであり,厳密に人間的な最初の 制度は,意図的で計画的なスケープゴートの反復であるということです。


つまり,供犠とは原初に起こった殺人による秩序の回復を模倣しているに他ならないということである。また,このスケープゴート理論での原初の殺人に続く「身代わりの山羊」,つまり反復されていく犠牲者は供犠の機能上の意味において,まず身代わりとしての作用が働くために共同体の一員との類似性を持つ者である必要がある。そして,親族や近親者からの復讐の危険性のない者であるという恣意的な選択がある。さらに復讐という観点において付け加えると,身代わりの山羊は,復讐の義務を負うような親族を持たない,捕虜や身体的異形者,または精神的異常者のような共同体から逸脱している特殊性を帯びていることがふさわしいという。


そのように選択された犠牲者は, 供犠において身代わりの山羊として多くの他者の中でひとりの敵対者として取り上げられ,共同体の全ての人間の分身となり,共同体の全員と対立することになる。それまでは,共同体の危機的状況の中での対立の構図が個人対個人であったのに対し,危機的状況打破のための儀礼において,その構図は 一変してひとり対全員の対立という様相となる。そして,それは多くの場合, 一種のリンチというような全員が参加してひとりを殺めるという暴力行為とな る。共同体に拡散した模倣による暴力の軋轢の種を身代わりの山羊の上に偏在させ,生贄として全員の参加によって殺害するのである。


満場一致の暴力  

ジラールは,これを「満場一致の暴力」と呼んで,供犠の機能における必 要不可欠な土台であると考えている。この満場一致の暴力によって,犠牲者 である身代わりの山羊が暴力を排泄し共同体に平和と秩序を回復させる力に なるという。つまり,殺人という暴力によって,良い意味での儀礼による模倣 の作用が起こると断言するのである。この作用をジラールは宗教的で本質的 な現象であると言い,その特徴を「二重の転移」と呼ぶ。「一つは攻撃の転移 であり,もう一つは和解の転移」である。このことからジラールは,欲望の 模倣が共同体を分裂に追いやるのに対して,暴力の模倣は共同体の結束を確 立させ平和を取り戻すという解決策となると主張し,この暴力が共同体を安 泰に導く「良い暴力」であると位置づけ,以下のように,この暴力こそが「聖 なるもの」だと述べている。


他の暴力によってしか暴力に対抗できない瞬間が,いつもやってく るように思われる。そんな時,それに成功するか失敗するかなど問題にならない。勝利を収めるのは常に暴力である。暴力には,ある 時は直接的で積極的な,ある時には間接的でネガティブな,異常な 模倣効果がある。人々が暴力を制御しようとつとめればつとめるほ ど,彼らは暴力に餌を与えることになる。暴力は,人がそれに対置 する障害物を,行動の手段に変えるのである。暴力は,消そうとし て投げ込むもの一切を貪り食って激しく燃え上がる焰に似ている。… 聖なるものとは,人間がそれを制御できると思いこめば思いこむほど,それだけ確実に人間を制圧する一切のもののことだ。したがって人々をおびやかすのは,…人間それ自身の暴力なのだ。聖なるものの真の核心、ひそかなる中心を成すものは、そうした暴力なのだ



文化と神々の誕生  

そして,満場一致の暴力という聖なるものによって殺されたその身代わりの 山羊は,共同体に平和と秩序を回復させるだけではなく贖罪の山羊としての 浄化的機能(カタルシス)によって,共同体の穢れを一掃するのである。そして, 犠牲者は平和と秩序と豊饒と癒しと浄化をもたらす超越性を帯び神格化する。 そのような意味においてジラールは,「神が誕生するためには,満場一致の暴 力の仲介が要るの」だと言及する。


そして,全ての宗教において,この満場 一致の暴力が神を出現させ犠牲者に対する信仰を創出するのだと下記のように記している。 最初に選ばれた身代わりの山羊が,一切の害悪の責任を引き受ける ことで,個人間に生じた亀裂を解消し,共同体の危機に終止符を打 つのであろう。身代わりの山羊が働きかけるのは,危機のために弛緩した人間関係のみであるけれども,しかしペスト,干ばつ,その他客観的な厄災といった外的な要因にも同様に働きかけているかの ような印象を与えるのである。信念がある一定の限度を超えたところでは,身代わりの山羊の効果は,迫害者と犠牲者とのあいだの関 係を完全に転倒させてしまう。そしてこの転倒から,聖なるもの,共同体を創始した祖先,神々が生まれてくるのである。


このように,ルネ・ジラールの考察する宗教の起源は,人間同士の模倣(ミメーシス)的欲望が引き金となって始まったとされる。他者を模倣することによって相互が同一の対象を欲しライバル化する。それにより暴力が引き起こされ,さらに相互に個々の欲望を模倣し合うことによる欲望の悪循環が周囲の人々に伝染病のように襲い掛かり,大衆は他者の欲望を模倣し合い暴力で染まる。欲望を制御する機能をもたない人間たちは,それぞれが自身の模倣された欲望に従い暴力を生み出し,さらにその暴力が欲望の媒介者からの報復という新たな暴力を生み,この暴力が多面的に連鎖していく。


この暴力の連鎖によって混沌となった共同体は滅亡の危機的状況に陥ってしまう。このような壊滅状態の共同体で,民衆同士の暴力を制御する突破口を探し当てることのできなかった共同体は破滅していったのかもしれない。  


しかし,その滅亡の危機に際して自然発生的ではあるが,集団死刑によるひとりの犠牲者の殺戮という出来事によって暴力の連鎖に終止符が打たれた。 これが創始的満場一致による原初の供犠となり,儀礼的供犠はその原初の供 犠の反復として共同体に平和と秩序をもたらす作用を持つことになった。これ がジラールの推察するスケープゴートの始まりである。そして,この暴力をジラールは「定礎の暴力」と呼び,この最初の殺人を「定礎の殺人」と名づけている。

また,この最初の犠牲者は神格化され,全てのものを超越した信仰対象,つまり神となり供犠を生み出した原初形態は各共同体において宗教となったという。

以上が、ジラールの模倣(ミメーシス)的欲望論の概略である。







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