From Oscar Wilde’s book, The Portrait of Dorian Gray.
オスカーワイルドの著作『ドリアン・グレイの肖像』より
”ドリアンの波打つ金髪、生き生きと赤みがかった頬、健康ないたずらっぽさと、品の良いユーモアと高邁な思想とにきらめく眼。”
原作に沿いつつも、ドリアンなんて人はいないので自分で描くことに….
そもそも、ドリアングレイとは
主な登場人物は、画家のバジル、快楽主義のヘンリー卿、そして美貌のドリアンの三人。
バジルとヘンリー卿がもともと学生時代からの友人で、小説はバジルのアトリエにてこのふたりが会話している場面からはじまります。
アトリエではバジルが絵を描いていて、とある肖像画を見たヘンリーが「この作品は今まで1番の出来だ」と褒め、それを聞いたバジルがヘンリーに打ち明けたのが、肖像画のモデルとなったドリアンのこと。
彼との運命的な出会い、そして、彼からの影響がバジルにこの絵を描かせたといいます。
「感情を籠めて描いた肖像画というものは、作者の肖像で、モデルの肖像ではないのだ。モデルは偶然のきっかけにすぎない。画家の筆によってモデルの全貌があらわにされるというよりも、画家がかれ自身を彩られたカンヴァスのうえに具象しているのだ」と。
そうやって語られていくうちに、ヘンリー卿は次第にドリアンに興味を抱くようになっていく。
どんな人間なのか、自分も会ってみたい。そう思い始めたところで、バジルのアトリエに今日まさにドリアンが遊びに来ることが知らされる。…ってことは、会える?!
そう思わせておいて、なぜかバジルが「ヘンリーには会って欲しくない」とかなんとか言い出して、すでに三角関係になりそうな予感がチラつくのだが、
そんな期待だけを煽られた状態で、ヘンリーが大人しく帰るわけもなく、ヘンリー卿とドリアンはさっそくご対面。そして、ここからはむしろドリアンの方がヘンリーの快楽哲学に影響され、変貌していくことになる。
〜以下ヘンリー卿語録〜
「思想の価値は、それを表現する人物の誠実さとはなんのつながりもない、むしろ、人物が誠実さを欠けば欠くほど、思想の知性度は純粋となる。というのも、その場合、思想が、個人の願望、欲求、偏見といったもので彩られる心配がないからだ」とか
「実際にだれも自分というものを正しく理解してはいない。ましてや、他人を理解するのはなお難しい」とか
「人間にもっとも強く君臨する情念は、
人間がその素性に関して、自己欺瞞を行っている情念にほかならない」とか
「情念の奇妙にして冷酷な論理、そして感情に彩られた理性の姿を目に留め、情念と理性の出会う地点と分離する地点、調和する地点と衝突する地点を知ること。そこにはこの上ない喜びがある」とか
「人間のエゴは単純で永続的であり、信頼するにいたり、一定の本質を持っていると考える人間の浅はかな心理を、彼はいつも不思議に思う。彼にとって、人間とは、無数の生活と無数の感覚等を持ち、思想と情念のいとも不可思議な遺産をうちに秘め、死者の異様な疾病に肉体を冒された複雑多様な存在なのだ。」
などなど。逆説も多く難解なパラドックスに満ちており、頽廃的な危険な言い方をすることも多けれど、魅力的。
心なしか、甘松香のような芳香すら、
その本から漂っている気さえする。
刺さる人にはブッ刺さる….
若く、美しく、純粋で、二十歳そこそこだけど、まだほんの子供といった感じのドリアンが変貌していく様子、心理描写や対比、など
ドリアンとバジル、
バジルとヘンリー、
ヘンリーとドリアン
フライトの心の構造(イド、自我、超自我)
に通ずる三者の関係にもご注目。
全てにおいてこんなに美しいものはない。
‘波打つ金髪、
生き生きと赤みがかった頬、
品の良いユーモアと
高邁な思想とにきらめく眼”
序文のさいごにある、「もしドリアンがいつまでも今のままでいて、代わりに肖像画のほうが歳を取り萎びていくのだったら、どんなにすばらしいだろう。そうなるものならなぁ!」
に、既に今後の展開は書かれているのだが、大切なのは美しさや、若さだけを賞賛している小説ではないこと。むしろ、オスカーワイルドはモラリスト。しっかりといろんな事を回収していくので、そこもお楽しみに。
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