ループ

 



非モテ男は男というアイデンティティにすがるのでフェミニストなどが自分達を脅かすと思い込んで攻撃する。逆にモテる男ほどリベラルな育メンになるらしい。ティモシーやジャスティンなど若いうちにモテまくった人達、たしかにかなりリベラルな考えの持ち主でもある。まあ立場的な発言もあるだろうけど…

女に関しては自尊心で分かれる。自尊心の低い女ほど性を売り物にしたり貧しくても家庭があれば幸せなどと言って貧困専業主婦になる。それに対して自尊心の高い女は男女平等を目指す積極的な活動家になり、差別的な表現や行動を糾弾し、自尊心の低いアンチフェミの男と衝突する。


SNSに過度に承認を求めたりアダルトに手を出す女はとにかく自尊心が低く、承認欲求が高すぎる。がゆえに、自尊心が低いと貧乏で不健康で早死にするなどと言われたこともあったが、これはすでに科学的にも否定されている。


そもそも自尊心とはなにか

自尊心の高さは成績にはわずかに相関したものの、自尊心は原因ではなく結果だということがわかっている。


自信があるからテストでいい点を取るのではなく、テストでいい点を取ったから自信が持てたというもので、必要なのは行動であり自信とはあとからついてくる付属品にすぎない。


しあわせもそうで、幸せはうしろについてくる影のようなものなのだから前にあるわけではない。だから追いかけても無駄なもの。

ほめて伸ばす、自尊心を伸ばそうなんていう教育はむしろ有害になる可能性がある。


当たり前だ。きみならやれる、などと言われたらやってもできなかったときにどうなるか。

賢いねえ〜賢いねえ〜と言われて育った子供が、テストの点数が悪かった日にどうなるか。

想像すればわかることだ。有害でしかない。

自尊心とは報酬であるわけだから、あとからもらうものだ。先にもらってはやる気だってなくなる。


面白いのは自尊心が低いひとほど、ものごとを諦めない傾向がある。もうやめたらいいのに諦めるという決断すらできない。ちなみに浮気や離婚も多い。





また、幸福だと思われがちな美男美女についての研究結果も一般的な見方とは違う結果だった。とくに女の子に関しては見た目の美しさと幸福度に相関関係がなかった。美人であれば幸福なのかというと、むしろ幸福度は低かったという。これも想像すればわかることだ。男性に関しては美男は生活満足度のみ外見が魅力的なほど高くはなったが、あとはさして影響がなかった。美人で得をするのは、女よりも男であることはすでにわかっていることだが、美男子だからといって全体的な幸福感が高くなるわけではないようだ。


だがこれを大きく覆すのは主観的な尺度だ。男であれ女であれ、客観的な事実はどうであれ、自分で自分を魅力的だと思っている人は幸福度が高かった。女子学生では外見の魅力がないほうが、幸福度が高かった。一方デートの回数では、女性では魅力的な方がデートの回数は多かったが、男性では魅力度上位、下位ともに違いはなかった。


この結果からわかるのは、相手に外見的な魅力を求めるのは女よりも男ということになる。


美男美女が一般的に考えられているよりも幸福でもなければ、自尊心が高いわけでもないというのは意外な結果なのかもしれないが、人はよくも悪くも慣れる生き物なので、冷静に考えてみたらふしぎでもなんでもない。それにモテるということは興味のない相手からも目線を向けられるということでもあるし、周囲からの詮索や嫉妬も憚れる。面倒ごとも多いし、相手が本当に自分を好きなのか見た目に釣られてるだけなのかというのも不安になるものだろう。しかし、金銭的には確かに得をするようだ。だがこれすらも元から魅力的な人間にとっては慣れてしまうことらしい。


また、宝くじにでも当たればなんてラッキーなんだろうと考えるかもしれないが、一年後には幸福度も元に戻ってしまう。なんなら、いきなり大金を手にしたことで、いきなり知り合いが増えたり、金を無心されたりして人間関係が壊れ破滅に向かう人も多いためむしろ当たったことで不幸に転落するとすらいわれている。


反対に交通事故にあって大怪我を負って絶望に打ちひしがれていたとしても、宝くじに当たったとしてもどちらの場合も元の幸福度に戻っているらしい。


自尊心の高いか低いかで、自我が脅かされたときの対応も違うという。自尊心が高いと、傲慢になり低いと腰が低くなる。そのため集団主義の文化では自尊心が低くなり、個人主義の文化では自尊心が高くなったという結果も面白い。日本のような同調圧力の強い環境下だと、自尊心が高いと誰かから自尊心が脅威にさらされてしまうと無意識のうちに傲慢に振る舞ってしまう。そうした空気の読めない態度をすると村社会からは排除されるため、日本には自尊心の低いものしか残らなかったという説がある。




自尊心の高い者は自らが努力することで自尊心を取り戻そうとし、自尊心の低い者は周囲に同調することで失われた自尊心を取り戻そうとする。ここから自尊心が高い=個人主義的、自尊心が低い=集団主義的という議論になっていった。


しかし、ここまで言っておいてなんだが自尊心というものの定義がいまだに曖昧もことしている。


例えばBig5なんかは今はかなりのところまで生理学的に説明できるようになった。共感力なんかは血液中のオキシトシンのレベルを計測することで共感力の高低が判断できる。それにたいして自尊心はいまだにあなたは自信がありますか?と聞いているだけなのだ。


自信が例えあったとしても、あります!と答えるよりセーフティーネットをはったり、謙遜の意味でありませんと答える場合もあるだろうに。ここには文化の違いも反映される。


内心では極めて自尊心が高いのにも関わらず、わかりやすく自慢すると叩かれるのを知ってるので周りに合わせて低く見せているということもありえる。周囲と合わせるためにあえて自尊心を低く見せているというもので、顕在的にはかなり自尊心は高いという日本人は多そうだ。


その反対に実は自尊心がないものの虚勢を張って自信満々に振るまっているがそれが周囲にばれないかと内心では戦々恐々としているというパターンもある。実際はコンプレックスが強いのだ。


顕在的自尊心も潜在的自尊心も両方とも低い人は共同体の中でうまくやっていけず、うつ病と診断されたりもする。


しかしながら、自尊心と言うのを図るのが主観であいまいなかぎりは、これは勘違い力といってもよい。自尊心が高くてもその安定度が低ければ攻撃的になる。自尊心が低くても安定していれば、もともとそんなものだと思っているので他者の評価が低くてもあまり気にしないでいられるのだ。

自尊心が低く不安定な場合は、攻撃は他社ではなく自分に向けられ抑圧的になる。


Big5でも神経症的傾向というのがあるが、これは楽観的・悲観的のことで自尊心の安定度というのはこの神経症的傾向のことでもある。


忘れないでおきたいのは、共同体の温かさは排除から生まれるということ。だから人を排除しない人は冷たい人で優しい。博愛主義になれるのは意外にも個人主義であまり人とはつるまないような冷たいと言われがちな人であること。仲間を作らないということは、排除する人も作りにくいということ。自分と他人との境界線があり、自分と他人は違って当たり前なのだから、だからこそ他者への理解のために排除ではなく理解に努めようとできる人はこういう人たちの中にいる。一般的には、仲間や友情に厚い人がやさしくて仲間想いの良い人とされがちだ。"仲間"にとってはそうかもしれないが、仲間以外の人間からしたらどうだろうか。仲間との絆は仲間ではない者を排除することで生まれた。絆は誰かを排除し傷付けた結果でもあるわけだ。

仲間と排除、信頼と服従、道徳と悪事。
これらは二つで一つだということを忘れてはいけない。



IATをすると、人はみな偏見を持っているということになる。これは不都合な事実だ。

無意識のバイアスがあり、人種やジェンダーなどと結びつけたしまうステレオタイプがある。脳はリベラルになるために作られてきたわけではない。その為生存に不利なものや脳の反応でカテゴリーをつくってしまうのだ。それは、人間の脳に限界があるからで、複雑なものを複雑なまま理解することができないからだという。この脳の基本的なシステムがあるかぎり世界を単純化して見るステレオタイプからは逃れることはできないものであり、内集団と外集団という帰属による差別は人の本性でもある。


これは人だけではなくアリも同じこと。集団となり共同体をつくると、違う共同体と接触したときに互いに殺し合いを始める。アリには互いのアイデンティティを表す特有の印があり、それがニオイだ。



人間は旧石器時代でも数千人の集団を形成していた。ダンパー数は150なので、脳の枠組みを広げる仕組みが必要であった。そのときに使ったのが、言葉や文化、イレズミや服装、装飾品、音楽などである。こうして同じ印を持つ者たちが協力して違う印を持つ者たちを皆殺しにすることが可能になった。人と昆虫が似通っているのはなにも不思議なことではない。極めて大きな匿名社会を作るには同じ方法になるのだ。初対面の相手に対して私たちは無意識に印を確認しようとするが、これは強力な生存本能なので意識で抑制するのは極めて困難である。


こうした問題はアメリカの人種問題では白人と黒人に、ヨーロッパの移民問題ではイスラムになる。日本のネトウヨなら愛国、外国人、反日、というのがしるしで、自分達とは異なる主張をするものを在日認定する奇妙な風習が生まれた。


それ以外にも宗教や身分、カースト、民族、パレスチナ問題など現代社会ではさまざまなものがしるしになる。


差別の本質はしるしによるカテゴリー化なのだ。

では、差別をやめるにはどうしたらいいか。ここでカテゴリー化ではなく一人一人をみるというのがリベラルの戦略だ。


が、問題は一人一人の能力を見るという脳のスペックが50人程度しかないことだ。


数百人や数千人という数の人を一人一人見るのは認知の限界を超えてしまうのだ。

  


oh……


なんといったらいいかわからない



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