袋小路のねずみ

 







天使ミカエルがアダムに言ったこと

必要なことは、ただひたすらお前の知識にそれに相応しい行為を加え、信仰を加え、美徳と忍耐を加え、さらにやがて清き愛、チャリティーという名称で呼ばれるはずの、そして他の一切のものの魂でもある愛を加えることだ。

そうなれば、お前もこの楽園、パラダイスから出て行くことをいやとは思わないであろう。自分の内なる楽園を、遥かに幸多き楽園を、お前は持つことができるからだ。



久しぶりにJ・S・ミルを読んでいる。

何が義務であり、その義務をどんな判断基準で知るのかを示すのが倫理学。


ミルの功利主義では正か不正かをどう判断するのか〜から始まり偉大なる哲学者カントの「汝の行為の準則が全ての理性的な存在にとって受け入れられるような仕方で行為せよ」という原則から、快不快について、幸福について道徳についてなど話している。

まず定義をして、そこから、でもこの場合だとこうなるので、そうなると〜というように多角的な視座に展開して話してくれるところが心地よい。

普段、人からされる画一的な意見に辟易としている人間にとってはもはや精神安定剤のよう。

私は脳内反論マンなので、でもその場合はそうでも、こうだったらこうなるじゃん...
といつも考えてしまうので、ありとあらゆる可能性や状況を想定して、漏れなく思考している人がちゃんといたのだということにまず安心感がある。

色々な哲学者がいるけど、ミルはとても好みで、(ちょいちょい、デタラメの極みだの、それは豚にふさわしい理屈だ、などと口が悪いところも好みだ)

道徳の話もしているが、今ちょうど聞きたかった話でもある。それは、知識では力が出ないという問題があったからだ。そう、知識では、力が湧いてこない。最近は、もはや何をするにも力が湧かず、本当にモチベーションを見つけるのが難しい。こんなものやっても意味がないと考えてしまう。

どうしてこんなにやる気、力、エネルギー、まあ呼び方はなんでもいい、湧いてこないんだろうか。睡眠だの、食事だの、ストレスケアだのを見直してみても効果がない。そういう問題ではないということなのか。やっぱり私自身を支えて、触発させる、内なる動機が満ち満ちていない状態というのは異常事態であると感じる。

私は本来、そうおとなしいタイプではない。
小学生の頃は、学校から帰ると「ただいまー!行ってきまーす」と同時にあいさつをしてランドセルを廊下に放り投げ、きびすを返し即座に遊びに行く子であった。

外遊びがとにかく好きで、大抵は遅くなるまで遊んだが、母は「あなたの声はリビングまで聞こえてくるから」と言って心配もしなかった。

よく〇〇(友達)ちゃあああああああん!!!と叫んでいたので、家の中まで声が聞こえていたらしい。そんなバカデカボイスの元気な子だったことを思うと、私はそう本質的におとなしいタイプではないはずだ。

言いたいことは、この頃、子供特有のエネルギーで元気に飛び跳ねていたのは、そりゃあ子供ゆえというのもあるだろうが内なる動機に突き動かされていた、あの屈託ない元気はいったいどこへいってしまったのだろうということ。

大人になったのだ、といえばそれもあるだろうが、何かそういう問題ではないという感じがして

ここで、天使ミカエルの言葉を思い出してみる。
「必要なことは、ただひたすらお前の知識にそれに相応しい行為を加え、信仰を加え、美徳と忍耐を加え、さらにやがて清き愛、チャリティーという名称で呼ばれるはずの、そして他の一切のものの魂でもある愛を加えることだ。」

ミルは、道徳的義務の根源は高揚だと言っている。高揚という言葉を快楽という言葉に優先させると、無味乾燥で実行できなくなるが、快楽という言葉を高揚という言葉に優先させると肉感的で実行が簡単過ぎてしまう。

エピクロスからベンサムに至まで、高揚という言葉がなにを意味していたかははっきりわかる。有益なものや心良いものがや美しいものとを対立させたりせず、有益なものは何にも増して快く、美しいものを意味すると明言していた。

もちろん快楽にも質がある。(質的快楽については幸福論で語っている)そして、尊厳の感覚と高い能力を必要として得られる快楽と、そうでない快楽との違いも。また、多くの不幸は、無思慮、欲望の制御ができていないことから生じておりそれらは、努力でどうにかできるとも。

また、他人や社会全体としての利益、という観点からも幸福について話している。幸福を断念するのはそれ自体が目的ではなく、他に目的があること。それ自体を目的として善とするのは間違っている。

世の中の仕組みが極めて不完全であることを考慮し、大事なことも言っている。

「幸福を求めないことでできる行為が、達成可能な幸福を実現する最善の見通しを与えてくれる。なぜなら、このような覚悟だけが最悪の運命や偶然でも自分を屈服させる力はないと実感させ、それによって人は、人生の偶発ごとに関して悵然としていられるようになるからである。

一旦そのように実感すれば、人生の最悪を過度に心配することから解放される。」

道徳的性格を形成している色々な影響が、しっかりとした場所に繋ぎ止められていること。つまり、それらの影響がもたらす何らかの結果、道徳的に望ましい結果から引き出されてくる原理に繋ぎ止められていること。

つまり、教育の改善によって人間同士の一体感(キリストは間違いなくこれを目指していた)が、性格のなかに深く根を下ろし、そうした一体感が完全に本性の一部だと思えるような必要があるということ。


教育の改善によって、人間同士の一体感ですって?それが性格の深くに根を下ろして完全に本性の一部に…?
い、いやいやいや、今の現状を考えみればこれにまさに反していて、ひっちゃかめっちゃなのがわかる。多様性などといって、それを盾にし互いの言いたいことを主張したがるだけで、これも受け入れろ、あれも受け入れろ状態の、それこそ豚に相応しい理屈を並べ立てて騒いでいるこの現状を。それこそ共通の道徳的規範がないばかりに一体感…どころか分裂しまくっている。

そして、そんな一体感とやらも見果てぬ夢に終わり、イエスの目的も虚しく結局プロテスタントとカトリックで別れたし、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教と別れたし、いまだに宗教戦争(もちろんそれ以外の利害も付随されてはいるものの)起きたのは分裂による分裂。

この状況をみていると、人は分裂するものなのだろう。分裂して、統合して、でもやっぱりまた分裂して…

そうなる生物なのだろう、というのがもはや私の見方であって、一体感…キリストが目指した人類みなが一体となるなんて、夢のまた夢ではないか。そういう、根本的な諦め、があるからモチベーションにはやはり寄与しない。

ここまで読んで、ここまで考えて、
戻ってきた先が、あきらめ、などとはなんとも悲しいことで、ここまで考えてきたこと、歴史的にやってきたことは、じゃあなんだったんだ感がある。

これらを包括的にしたモチベーションのなさが問題なんだ。どうする?どうしてくれる?私はどうした方がいいんだろうか。

やっぱりまだ答えが見つからない。こんな風に袋小路に追い詰められたねずみのような気持ちになって、なにを目指していけばよいのだろう?

それでも、ミルのいうことにはヒントがあった。高揚からはエネルギーが湧いてくる。社会はデタラメだ、人のいうことも大抵はデタラメ。あらゆることの意味を履き違えて、豚に相応しい理屈をこねてくる。そんなものには振り回されず、聞くべき言葉を聞き分けなければいけない。それには知識が必要だ。でも知識だけでは力は湧かない。それには、結局は道徳的にも善なることを選ぶ他ない。高揚するものを、高められた知性によって得られる快楽を。私はそれを突き止め、追うしか今のところは、そうする他ないようだから。


義務の内的サンクションは義務の基準がどんなものであれ同一である。つまり我々の心の中にある感情だ。

大抵は併存関係にあるものに丸ごと覆われている。例えば共感とか情愛とかであり、さらに大きなは恐怖だ。あらゆる感情の宗教的感情もそうである。子供時代の思い出や自分の過去全体の思い出の場合もある。また自尊心や他人から尊敬されたいという欲望、さらのは自分を卑下する思いの場合ですらある。

この極端な複雑さが私の理解では道徳的義務の観念にあるとされがちな、神秘的性格の起源である。

こういう見方は人間精神の一つの傾向によってもたらされるものであり他にも多くの例がある。
この傾向のために道徳的義務の観念が結びついている物事ではどんな場合でも想定上の神秘的な法則が自分の現在の経験の中でこの観念を生じさせているものであり、他の形では生じようがない、と人々は信じ込んでいる。


しかし、道徳的義務の拘束力が成り立っているのは正しさに関する自分たちの基準に背くためには突破しなければならない一連の多くの感情が存在している。

またこういう拘束力があるにも関わらず基準に背いてしまうと、のちのちに後悔という形でこれらの感情に直面しなくてはならなくなる。

良心の性質や起源について、どんな理論を持つにしても良心はそもそもこのように出来ている。


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