ドストエフスキー





カラマーゾフの兄弟で、イエスは愛と精神と徳を説いたかもしれないけど人間にはパンと奇跡と権力が必要なんだ。人間は自由に耐えられるような強い生き物じゃないんだと書いていた。

難解な人間関係模様を最初にぶち込んでおいて、中間にキリスト教に対する矛盾点や疑問やグロテスクなこの社会と人間についての話をボコボコ提示していく感じがたまらないね。生きてたら誰しもがおかしいと気付くから当たり前と言えば当たり前なことだけど、そもそも宗教観を踏まえて世の中を見なきゃいけなかったなんて、頭が狂いそうだ。

しかしドストエフスキー、意外にも美醜が混ざっていて勝手に暗くて重たいイメージばかりあったけれど、暗いだけじゃなかった。


ドストエフスキー辺りは時代的にまだ神がいるのかどうか?という前提を入れなくてはならず(その設定邪魔すぎるな)本当にいるならこんな時に神は何してるんだという疑問があって、でももしいたとしても助けるとは限らないし、助けたらいけない、なぜなら神は手出し不要だからであると。何かあったら助けるは、ヒーローでありそのお役目は神じゃない。

それに神が手を出せるなら、結局は神の掌の上ってことだから我々は自由な存在ではなくなる。そうではないから、我々は自由なのだという流れ、哲学でも「我思うゆえに我あり」なんて言い出したりサルトルの実存主義大喝采、レヴィ=ストロースの台頭〜辺りの変革はドラマがあり過ぎる。




信じるって怠惰なだけなんだよ
頭使いませんよって宣言だから。しかし、
楽ができる上に何故か聞こえもいい。

だからみんな好む。
疑うって疲れるんでね。
本当はいつだって頭を使わなきゃいけないのに


もちろんイエスがやろうとしたこととニセ宗教はまるでものが違うけれど、ニーチェ同様に悪用されがちで、もし私がそんな宗教屋さんの教祖にでもなろうものなら、それを使うだろうよ。お祈りとかおすすめするね。信じる心が大切なのです、さあ祈りなさい。あなたは徳を積んでいますよ。あなたは何も悪くないのです。そうです、この免罪符を買うとパワーがみなぎり罪も許されます、とかね。くそでしょ

「信じる心が大切なのです。お祈りしましょう」
って訳すと(思考停止して俺の信者になれ)
だからね。でもなんか聞こえがいいのな。あなたは何も悪くないのですよ、さぁ祈りましょう
とか言われると、聞こえがいい。

これが合法かつ免税とな。すごいぜ。人類が真っ先に活用しただけあるわ。
信じるだのお祈りだの
それ思考停止のことだからね。
それで救われますとか
ラクな上に許されるという...
うっっわ、なんて都合がいいんだろう!
上手い話すぎて、なかなかよな
そんな都合の良い世界ならみんな幸せだろうなぁ
 
何度も言うけど思考停止して私の信者になれ
を言い換えると、信じる心が大切なのです。お祈りしましょう、あなたは徳を積んでいるのですとか、あなたは救われますとかあなたは何も悪くないのです、とかだからな。 

頭を使え、自分の頭で考えよう!人間なんて、みな愚かです。だからこそ対話が必要です、己の無知を知り、いついかなる時も信じず疑わず、ただ事実を確かめましょうよ、なんて嫌われること言っても本当はメリットない。うざがられる
不思議だよね。そういう人のほうが本当に純粋に物事を解決しようと努めている人なのに。救われたい人があなたは悪くなくてそのままでいい、は悪い状態を温存すると言うことだから、救われないのにね。悪いシステムをそのまま変えないということは、悪いシステムを保ち続けるということ。救われたいなら、変える為に動かないといけないし、動く為には原因の特定とか、どう変えていくか?変えるべきか?をやっぱり思考して試すしかない。そんなの誰でもわかることなのに。

考えるな、思考停止しよう、つまり信じるだけで救われるのです、心が大事なのですとか言う方が聞こえがいいから流されるという。流されるって救われない方に流されるということだから、めちゃくちゃ矛盾してるよね。



でももうちょっと見えてきた。
そうやって、ぬるま湯にいると楽ができる代わりに腐るけど

かといって誰しも熱湯に耐えられるわけでもない。耐えられるのはチートな人だけ。例えるなら五条の無下限みたいな、そもそも能力高いとか何か恵まれてるとかラッキーとかとりあえずなにかないと耐えられないもので、だから冒頭のカラマーゾフのように「人間にはパンと奇跡と権力が必要」ってことになる。それが現実的な回答でもあるし、実際は自由の重みにも耐えられない。自由ということは国家権力も法もない、ということだから、暴力がものをいう世界線になる。無法地帯ということだけれどそんな世界で誰が生き残れるんだろう。所詮、天才的な頭脳を持っていたって誰かの協力なしでは、発明もできないから、一部の天才が何かを発明するというところまでいかないまま死んでいくだろうし、結局、人は一人で生きているわけじゃないから、本当の意味で自由になったら誰だってひとたまりもないんだよね。亀のような甲羅も、ライオンのような爪も、鳥のような翼も、チーターのような足も何もない柔らかくて美味しそうな人間を、自然界に丸裸で投げ捨てたら、普通の人は何日で死ぬのだろう。結局、私たちの言う自由は、そんな自由ではなく、もっと都合のいい自由のことなんだ。好きに過ごせる時間があって、お金があって、体力があって、なんでも自分のしたいことができる、そんな甘い甘いご都合主義のことを自由と呼んでしまっている。そこに過酷さはない。

本来、迷うのも間違えるのも自由の一部なんだ。その自由に耐えられなくなって結局は権力でのお導きを求めるようになる。奇跡を起こして欲しいとか、何を信じたらよいのでしょうとか、せっかく迷う自由があるのに耐えられないから、神様まで作り出したわけなので。だから頼るのはクソである。心理と、現実と、願望とを人はごちゃ混ぜにして考えたり発言したりして文化まで作り出したりする。最初に理想をいう。こうなれば良いのに!と。でも現実はそうならないのでそこに苦悩し、どうにもならないとなると神様(どうにかしてください)が出てくる。自分では無理そうなので、あなたがやってくださいよの意。そうなったところに手を差し伸べようとする宗教には弱者ほど縋り付く。でも、はっきり言ってそんなものは無意味であって、しかし、それがわかっていながらも、人はこんなにも自己矛盾を抱えていて弱いじゃないかというのが事実でもある。そういう構造が見えていて、本当は良い方を選びたいのに能力不足でぬるま湯に落っこちるみたいな人が一番辛いんじゃないかな。と、思った。

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